
気仙沼市内の企業経営者の方と一緒に、東日本大震災当時の様子や災害対応を振り返る『つなぐトークプロジェクト「企業と語る、あのときの気仙沼。」』。
企業経営者の方のこれまでの経験をお聞きし、次の発災時に向けたノウハウを残すとともに広く共有することで、今後の防災活動に活かすきっかけをつくることを目的に実施しています。
※この記事は「合同会社 気仙沼の人事部」による、東日本大震災の経験を改めて整理し、未来に学びを残す取り組み「つなぐトークプロジェクト」の活動の一環として行われたインタビューを、許可を得て転載しています。
vol.1 株式会社菅原工業 代表取締役 菅原 渉さん
「つなぐトークプロジェクト」は、東日本大震災から14年を迎える中で、気仙沼の企業経営者が震災時から復旧・復興までの経験を語り、未来に繋げることを目的としたアーカイブ事業です。
第一回目のゲストは株式会社菅原工業の代表取締役・菅原渉さんが自身の出来事や震災時の経験を語りました。菅原さんは気仙沼出身で、大学を卒業後、東京の大手企業で舗装技術を学びました。2004年に家業へ戻る当時の菅原工業は水道工事が主業務でしたが、将来性を考えて舗装工事への転換を進めました。しかし経営改革の影響で従業員が4名に減少してしまいます。
震災当日は、入札業務を終えた帰路で緊急地震速報を受信し、津波に遭遇しました。もちろん、受注も災害によりすべてが白紙に。災害2日目、社員の安否確認をしつつ、1台だけ残った2tダンプカーを走らせ市役所に向かうと、土木課の課長に声を掛けられ、瓦礫の撤去作業を手伝うことになりました。
街の機能が停止し、日常生活が送れなくなったことで、「すべてが横一列になった」という菅原さん。4人の社員との関係もフラットになり、会社一丸となって復興を進めていきました。
その後、地域の復興に尽力し、震災の経験を踏まえ「このまちをつくる」というスローガンを打ち立てた菅原工業。 現在は舗装工事に加え、インドネシアでのリサイクルアスファルト事業にも取り組み、地域の発展と持続可能な事業展開を目指しています。
vol.2 株式会社石渡商店 代表取締役 石渡 久師さん
二回目のゲストは、株式会社石渡商店の石渡久師さん。
石渡商店は気仙沼を拠点にフカヒレの製造・販売を行い、震災後はサメ肉や骨を活用した商品開発にも取り組んでいます。
震災前には、2009年に起こったリーマンショックの影響を受け、飲食店の売上減少により輸出・国内販売ともに大きな打撃を受けました。それにより、問屋経由の販売に依存せず、消費者や料理人と直接つながるビジネスモデルへの移行を進めていました。震災発生時は上海にいたという石渡さん。どうにかして気仙沼へと戻ったものの、改めて津波の被害の大きさを実感することになりました。工場の2階まで水が入っている状況を確認し「復興までは10年はかかる」と覚悟したそうです。
行方不明になった従業員の捜索と並行し、必死になって資金調達や事業再建に奔走したことで、2011年7月という早期に工場を再開することができました。
震災から得た教訓として、災害時は何を捨ててでも逃げることが最優先であること、そして、「声を上げること」の重要性も訴えています。
vol.3 有限会社たかはし 代表取締役 髙橋 和江さん
三回目のゲストは、有限会社たかはしの髙橋和江さん。家業である京染悉皆屋として始まったお店を受け継ぎ、オリジナルの着物の肌着の商品開発・販売を行っています。震災の1年前には代表交代が行われており、事業を拡大し始めた矢先に震災が起きました。
自宅兼店舗の周辺を片付けているとき、長靴で訪れた女性から「いつお店を再開するのか」「汚れた着物を洗ってほしい」と声をかけられたと言います。改めてこの仕事をやらなければと実感した出来事でした。そして何とか4月29日に店舗を再開すると、汚れた着物が毎日届けられるようになり、1枚1枚着物の泥を落とすことから仕事が始まっていきました。
5月になると、インターネットが復旧。連絡が途絶えていたため、自社サイトのショップに届くメールにはクレームもあったものの、多くは心配のメッセージが寄せられていました。中には支援物資を送ってくれたお客様もいて、その後連絡を取り合ってお礼を直接伝えにいったそうです。そういったお客様からの支援を受け、従業員一丸となって事業を立て直していった高橋さん。現在は電気や水を蓄えられ、避難所としても使える新社屋を建て、災害に備えています。
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