「どうも、こんにちは!」
気さくな挨拶に導かれ、サーフショップの奥にあるカフェスペースの椅子に腰掛けます。カフェにはすでに先客が。
どうやらサーフィンの後の食事というわけではなく、名物のナポリタンを食べにきたようです。手際よく切られる玉ねぎの音とお客さんとの心地いい会話から、“サーフショップ”にいることを忘れてしまいそうになります。そんな不思議なあたたかさがある「かぶとむしSurf Shop」は、本吉町小泉海岸すぐ横にあります。
そして、30年続くこの店のオーナーは鈴木優美さん。優美さん自身もサーファーであり、毎日欠かさずお店ブログに小泉海岸の波情報をアップしています。
“ 私は、サーフィンという「遊び」を一生懸命やっているだけなんだよね。”
自分の生業でもあるサーフィンを「遊び」と軽やかに言い切る優美さんは、気仙沼のサーフィン文化の立役者でもあります。30年という歳月、小泉海岸をサーフィンとともに見つめてきた優美さんの歩みを振り返りながら、このまちでのサーフィンをご紹介できたらと思います。
[text&photo:平田和佳]
まち全体でサーフィンを楽しみたい
優美さんは元々石巻出身。結婚を機に本吉町に移り住み、最初はサーフィンと聞いたら「あぁ、なんとなく」という程度の知識しかなかったんだそうです。そこからサーファーである旦那さんの影響を受けてボディボードを始めて、“競技”のサーフィンにのめり込みます。
最初は、勝ちたいという気持ちで技を磨いてました。結果が出るのが楽しくて、全国の試合にも小さい息子も連れて一緒に色々行きました。
それに気仙沼の波は、秋冬は特に立派なクラシックウェーブで、楽しい波ばっかりなんですよ。
気仙沼では昭和60年から市長杯が開催されているほど、まちにサーフィンが根付いています。ですが、まち全体でサーフィン楽しめるようになるまでには、長い歳月が必要でした。
というのも、気仙沼で海は“漁師さんの場所”だったからです。ウエットスーツを着て海に入ろうものならば、密漁だと疑われることもしばしば。サーフィンというマリンスポーツを知ってもらうこと、サーファーのイメージを変えていくことなど地元の人達に理解してもらうことは山積みだったようです。そんな中、大会で訪れた千葉県鴨川市で、優美さんは心に残る経験をします。
いつものように小さい息子を連れて大会に行ったんです。それで、自分の順番になるまで公園で息子を遊ばせてたら、隣に子ども連れのお母さん達がいて。そしたら「今日はサーフィンの大会やってんだね」って普通に会話してたのを聞いてびっくりですよ!宿に泊まったら「この宿にはあのサーファーさんが泊まったんですよ」って話してくれるしさ。
ここではサーフィンをしない人達にもサーフィンが身近にある、サーフィン文化ができてんだなというのを感じました。
まちぐるみでサーフィンができることが本当に羨ましかったと話す優美さん。そこで感じた思いは気仙沼本吉サーフィンクラブの「素晴らしい海、自然を守っていくとともに地域の活性化、相互協力、サーフィンの普及を考える」という理念に通じるものがあると話します。
そして、今も続くビーチクリーンの活動は「自分たちが使わせてもらっている場所だから」と始めたようですが、その姿が地元の人達のサーファーのイメージを変えていきました。
サーフィンがないとダメだ
震災前の小泉海岸(写真提供:鈴木優美)
まちにサーフィンが根付いた頃、2011年に小泉海岸は大津波により壊滅的な被害を受けます。白砂青松百選にも選ばれた美しい海岸は200mも流出し、浜は瓦礫に埋もれました。
そんな甚大な被害を受けた登米沢海岸で、なんとその年の10月には市長杯が開催されることとなったのです。
もうここでサーフィンをするのは無理だよな、と思いましたね。
でも、市長杯に参加してくれた全国のサーファー達が、毎週毎週物資を届けてくれて。物資を届けながら、瓦礫の撤去までやってくれました。めまぐるしい避難所での生活が1ヶ月ほど続いたときに「サーフィンやらないとダメなんじゃねえか」って声がポンと聞こえてきたんです。「いやどこでやんの?」って最初は思ったんですけどね。
でも、だんだん手があいてきたときに、やっぱり浜の瓦礫撤去をしようと思ったんです。今までやってたビーチクリーンの活動代わりだって。
そこから気仙沼本吉サーフィンクラブの人達と、どうやって再開しようかと知恵を絞りながら話し合いました。それと同時にサーフィンに関わる人たちが同じ方向を向いてスタートを切れるようにと、地元のいろんな方達に会いに行って再開への理解をいただく話し合いもしました。
2011年の市長杯の様子(写真提供:鈴木優美)
迎えた市長杯当日は、潮の干満で全く波が割れなかったようですが、みんなでパドリング競争をしたり、浜から上がってバザーをしたりと、復興を祈りながら思い思いにその時間を過ごしたようです。
その時の市長杯はもちろん賛否両論ありましたよ。でも、私は震災を機に海に入らなくなった人が、いつ戻ってきてもいいように迎える準備をしておきたくてさ。この浜に岩手とかから2時間くらいかけてきてくれて、海に入っていた時間を取り戻さないとって。
“ はじめまして ” の人でも楽しめる浜
(写真提供:鈴木優美)
都会の浜は大きいから、グループで行って、そのグループ内だけで楽しむから、他のサーファー達とコミュニケーションを取らなくてもいいことが多いですよね。
でも、ここは小さい浜だから、みんな挨拶をして、海に入って行くんですよ。一回話すとオープンにコミュケーションしてくれるので、一人で来ても楽しいし、出会いの浜でもあるんですよね。
優美さんは小泉海岸で出会い、結婚された方達をもう何組も見てきたと話します。
そんなあたたかなコミュニケーションがある小泉海岸には、あるスタンスがありました。
改めてこのまちでの海の使い手の優先順位はサーファーが一番ではないと私は思っています。
それに、まちで「今日も遊んでたの?」と声をかけられたことがあった時に、気づいたことがあるんです。自分はサーフィンを仕事ともちょっと違うんだけど「生業」だと思っているんですが、一般的にはサーフィンは余暇、つまり「遊び」なんですよね。
一般の人が「遊び」だと思うことを、私は「生業」としてできていること。そんな生業を時間はかかったけど理解してもらいながら、思いっきりやらせてもらえることはありがたいなって思うんですよね。
なので“小泉海岸はみんなの場所であるからこそ、一人ひとりが他の使い手のことを考えがら使うこと”が大事なんじゃないかと思っています。
この想いから、浜を見守り続ける優美さんのしなやかさと潔さがひしひしと伝わります。
また優美さんは「このまちでのサーフィン文化は、そんな想いを同じように持っているみんなでつくってきた」と続け、長い年月をかけながら想いを共有し合い、みんなで心地いい浜をつくってきたことにも気付かされました。
三陸道が開通し、アクセスが良くなった小泉海岸には、きっと今まで訪れたことがなかった方達にも、たくさん足を運んでいただけるのではないかと思います。
「市内外の人がコロナ禍でも安心してサーフィンを行うには、お店ができる最大限の配慮は引き続き行いながらも、このみんなの想いをもっとわかりやすく、オープンにしていく必要がある」と優美さんは力強く話します。
“一人ひとりが他の使い手のことを考えること”を初めて浜に訪れた人にも共有していくことは、コロナ禍でも安心してサーフィンができる鍵となることでしょう。
だからこそ、小泉海岸ではどんなときも変わらず「こんにちは」という挨拶から始まり、新しい人達との出会いを歓迎しています。
人のあたたかさを感じながら、安心して気持ちよくサーフィンをしたい皆さんは、ぜひ、小泉海岸に遊びに来てくださいね。
■ 人物紹介
鈴木優美(すずきゆうみ)さん
サーファー歴30年で、かぶとむしSurf Shopオーナー。気仙沼本吉サーフィンクラブ事務局長。サーフィンの普及活動の傍、本吉観光協会副会長、小泉ユニバーサルビーチユニット(KUBU)副会長、本吉夢プロジェクト委員会事務局長を務めるなど、まちづくりにも精力的に携わる。
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店の名物であるナポリタンは、家族のためにつくっていたものが、いつの間にか料理人のサーファー達から鍛え上げられ完成した一品だそう。サーファー達の希望から次々とメニューが増え、ついには駄菓子まで用意してしまう。メニューからも優美さんのホスピタリティーを感じて止まない。
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