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山内宏泰
山内宏泰(やまうちひろやす) 1971年、宮城県石巻市生まれ 1994年よりリアス・アーク美術館学芸員(現在:同館館長/気仙沼市在住) 1994年頃から美術家として個展、グループ展など多数。また舞台美術家、舞台衣装家として多数の舞台に参加。 平成15年度宮城県芸術選奨新人賞受賞(美術・彫刻/宮城県)/平成29年度棚橋賞受賞(日本博物館協会)/スローフード気仙沼理事/一般社団法人気仙沼まちづくり支援センター理事
気仙沼のいいところ(在住27年、ベテラン移住者から)第4回

このコーナーでは、気仙沼の市民の方に先生としてご登場いただきます。今回の先生は「リアス・アーク美術館」の館長、山内宏泰さんです。気仙沼在住27年の「ベテラン移住者」である山内さんから「気仙沼のいいところ」をテーマに、気仙沼の魅力や、住み続ける理由について教えていただきます。
それでは山内先生、よろしくお願いいたします!

おわりに~あれから10年、愛しき気仙沼へ

いろいろなことがありましたが、気が付けば27年間、私は気仙沼で生きてきました。その時間の積み重なりの中にあって、在住17年目の2011年に経験した東日本大震災、平成の三陸津波による大災害と、その後の10年間はやはり特筆するべき重大事件、様々な人たちの人生を大きく動かした大事件でした。私自身も家を流され、大切なペットを亡くしました。家財もすべて失いました。亡くなった友人、知人もいます。本当にたくさんの大切なものをなくしました。生まれ故郷の石巻市も大被害を受け、私が少年期を過ごした界隈は何もなくなり、現在は宮城県の復興祈念公園となっています。40年の人生で積み重ねてきた記憶の拠り所、その半分以上がこの世から消えてしまったことに、当時の私は大変なショックを受けました。

▲2011年3月12日、気仙沼市赤岩港の様子。

東日本大震災発生直後、私はそれまで気仙沼で親しくしてきた信頼できる仲間たちと、このまちの将来について語り合いました。震災からの復旧、復興をどのように進めていくべきか、その結論を導き出すためには多くの時間と強い覚悟が必要とされます。それゆえ国が求めるような短期間でその答えを導き出すことなど普通はできません。ところが気仙沼の人々は違いました。集結した皆さんはまるで初めから決まっていたことのように、まちの未来像を共有していました。「これまでと同じように、海と共に生きていく」それが結論でした。気仙沼の人々には覚悟があります。これからも津波はやってきます。そうすれば再び大きな被害が出ることも分かっています。しかし、気仙沼の人々は決して海から離れようとしませんし、海を遠ざけようともしません。
2011年以降、気仙沼にはものすごくたくさんの人たちが出入りしました。よその土地の人たちが被災地の復旧、復興を支えるためにたくさん移住してきました。そしてそのほとんどの人たちは予定していた仕事を終えてこの地を去っていきました。「他に帰る場所がある人たちだから…私たちとは全然違う。私たちに他の場所はないから…」。在住13年目だった妻と当時よくそんな会話をしました。もちろん、支援者を非難するつもりなど全くありません。ただ、事実として、やはりその差は埋めようがありません。
震災発生から間もないころ、身近な者から「潮時じゃないか、気仙沼を離れてもいいんじゃないか」との言葉を何度か投げかけられました。それは決して悪いことではないし、恥じることでもない。自分の人生、家族の将来を考えて判断するべきではないかと。その通りだと思います。しかし私はそのような意見を全面的に、心の底から打ち消しました。「今、この状況でこの地を離れることなどできるわけがない」と。妻も私と同じ考えでした。


理由はシンプルです。あの人たちを置いて出ていくことなどできるはずがないからです。気仙沼という場所だからではなくて、気仙沼で苦楽を共にしてきた皆さん、そして今まさに最大の苦難に直面している皆さんを無視して、自分だけが出ていくことなどありえない。私は皆さんとともに気仙沼を守らなければならない、そう思っていました。


気仙沼というまちは、市民のおよそ7割が何らかの形で漁業、水産業などを介して海と関わりのある暮らしをしていると言われています。そういう意味では、私は残りの3割に属している人間かもしれません。つまり、私は気仙沼でなければ生きていけないタイプの人間ではないのです。それでも、私はこの土地を離れるつもりはありません。


海が無くても私は生きられます。しかし心が通じ合っている人がいない場所では生きていけません。気仙沼には価値観を共有できる素晴らしい人たちがたくさんいて、その人たちが心の底から愛する気仙沼というまちがある。まちの魅力は人の魅力です。

最後に、まだ気仙沼を知らない人たちへ一言。
気仙沼のいいところ、それは人です。あなたも気仙沼に住んでみませんか? 面白いですよ!

(おわり)
この記事は全4回に分けてお送りしました。
「気仙沼のいいところ(在住27年、ベテラン移住者から)」
第1回「気仙沼との出会い」
第2回「ディープな気仙沼への入口」
第3回「気仙沼の宝、ユニークな人々」

気仙沼の市民の方に先生としてご登場していただく
「教えて〇〇先生!」シリーズはこちらからご覧いただけます。

https://kesennuma-kanko.jp/category/marumarusensei/

気仙沼のいいところ(在住27年、ベテラン移住者から)第3回

このコーナーでは、気仙沼の市民の方に先生としてご登場いただきます。今回の先生は「リアス・アーク美術館」の館長、山内宏泰さんです。気仙沼在住27年の「ベテラン移住者」である山内さんから「気仙沼のいいところ」をテーマに、気仙沼の魅力や、住み続ける理由について教えていただきます。
それでは山内先生、よろしくお願いいたします!

気仙沼の宝、ユニークな人々

いつのころからか、私を〝天才山ちゃん″と呼ぶようになったスローフード気仙沼のアニキたちは、実は私の何倍もバイタリティーあふれるスター軍団でした。魚屋さん、造り酒屋さん、油屋さん、電気屋さん、料理人、などなど、様々な業種の様々な技能を持つアニキたちが実現しようとする壮大なまちづくりの夢を、私も一緒に追いかけてきました。
荒くれた浜の気質で、文化・芸術など意に介さぬ地域性が美術館の存在を潰しにかかるのではないか! 気仙沼に移住してきた当初は、そんな不安も抱きましたが、実際には全くそんなことはありませんでした。意外なことかもしれませんが、港まち気仙沼には芸術的な活動を愛好する人たちがたくさんいます。

▲気仙沼湾の漁船係留風景。

例えば遠洋マグロ漁船の船員さんなどは、外国の寄港先で暇つぶしに美術館巡りをすることがあるそうです。字が読めなくても、言葉がわからなくても楽しめますので、美術館はお勧めのようです。気仙沼にはそういう経験をしてきた元漁師さんなどがたくさんいて、自分で絵を描く人も多い、だからこそ美術館がつくられることになったのだと私は解釈しています。
港まち気仙沼で腕を揮う鮨屋の大将が、実は美術作品コレクターで、かつ自分でも油絵を描く方だったり、農家のおじさんが実はプロ級の写真家だったりします。役所の職員が詩の同人誌を発行していたり、魚市場前で仲買を営む方が地元アートグループの代表、画家だったり、米屋の女将さんが大劇団を立ち上げたり、ちょっとお洒落な喫茶店が気仙沼ジャズマンたちの聖地になっていたり、とにかく文化的な活動をしている人たちがひしめき合っている〝豊かな″まちなのです。

▲「気仙沼スローフードフェスティバル2007冬」シンポジウムの様子。

古くから港に寄港する船員たちをもてなしてきた気仙沼には、芸事を生業にする人たちもたくさんいました。おいしい酒を振舞うために造り酒屋もあります。船大工としての特殊な木工技術を習得した大工さんもいました。漁業には欠かせない竹製品を作る竹職人や漁具を作る鍛冶屋、大漁旗や大漁カンバンを染める染物屋などなど、気仙沼には海を中心に築き上げられたクラフトマンシップと、それを見極める芸術的センスが根付いているのだと思います。そしてその一方で、浜の人々はやはり屈強でもあります。
ラグビーが盛んな気仙沼からは、日本代表選手なども誕生しています。そして柔道や空手などの武道も盛んです。気仙沼でコーヒーショップを営む友人は、私が知る限り現在気仙沼で最も巨大な人で、やはり元ラガーマンです。また丸太のような腕をした内湾地区のある魚屋さんは、柔道、空手の有段者で、アームレスリングのチャンピオン、パワーリフティングの日本ランカーだった人。油屋さんは東京六大学野球で有名な大学野球部出身。一見シュッとした造り酒屋さんは大学でアイスホッケーをやっていたとか。とにかく気合の入った人たちが一堂に会して〝まちづくり″をしている、気仙沼とはそういうまちなのです。

「マッチョで器用な男たちと、きっぷのいい朗らかな女たちが暮らす港まち気仙沼」、そう言ってしまえば、もはやその魅力をこまごまと説明する必要はないかもしれません。

私のように、よそのまちからやってきた者の多くは、この素敵な人たちの魅力にやられ、気仙沼にはまっていくことになります。私の周りにはそういう〝はまっちゃった人″がたくさんいます。特に2011年の東日本大震災をきっかけに当地を訪れた人たちが、口をそろえて語っていたことは、面白すぎる気仙沼人を称賛する数多のエピソードです。地元民のひいき目ではなく、私のようなよそ者の目から見ても、気仙沼の人々は面白い。それどころか、世界的な活躍をしてきたような著名人でさえ、気仙沼人の魅力にはまっていきます。そして嬉しいことに、そんなユニークな人たちと未来を共有したいと願う若者たちが、この10年でたくさん増えました。そのすべてが気仙沼の財産、宝です。

(つづく……)
この記事は全4回に分けてお送りします。
「気仙沼のいいところ(在住27年、ベテラン移住者から)」
第1回「気仙沼との出会い」
第2回「ディープな気仙沼への入口」
第4回「おわりに~あれから10年、愛しき気仙沼へ」

気仙沼の市民の方に先生としてご登場していただく
「教えて〇〇先生!」シリーズはこちらからご覧いただけます。

https://kesennuma-kanko.jp/category/marumarusensei/

気仙沼のいいところ(在住27年、ベテラン移住者から)第2回

このコーナーでは、気仙沼の市民の方に先生としてご登場いただきます。今回の先生は「リアス・アーク美術館」の館長、山内宏泰さんです。気仙沼在住27年の「ベテラン移住者」である山内さんから「気仙沼のいいところ」をテーマに、気仙沼の魅力や、住み続ける理由について教えていただきます。
それでは山内先生、よろしくお願いいたします!

ディープな気仙沼への入口

▲昔のスナック街(太田・入沢)

気仙沼市は人口に対してスナックの数が異常に多いと言われてきたまちです。その理由は、カツオやサンマ、その他もろもろの漁船が寄港、水揚げなどを行った際、漁師さんたちが一息入れるためにそういうお店を求めるから、あるいは仲買さんたちが漁師さんたちをもてなすためということです。

居酒屋や食事処ももちろんありますが、スナックは単に飲食をするというよりも、顔なじみのママさんやオネエさんと楽しい時間を過ごす場所、大人の社交場でもあります。船から陸に上がった漁師さんは内湾近辺の銭湯で一風呂浴びて軽く食事を済ませ、それからママさんやオネエさんに会いに行く。それが港まち気仙沼の流儀なのです。

▲気仙沼のスナックは大人の社交場

さて、23歳で気仙沼にやってきた私は、地元を知り尽くしたようなユニークなおんつぁま、おばちゃまに導かれ、内湾にひしめく数多の飲食店、スナックなどを渡り歩くことになりました。例えば職場の飲み会、二次会となれば上司おんつぁまに連れられてスナックに行きます。いきなりスナックです。

▲顔なじみが集まるスナック。

直前まで学生だった私はママさんがいるような、ド直球のスナックなど入ったこともありませんでしたので、非常に新鮮な体験でした。都会でスナックに入った経験がないため比較は難しいのですが、気仙沼の場合、同行する方の馴染みのスナックと言えば、ほとんどの場合、同行者とママさんが旧知の仲というパターンです。例えば同級生、同級生の妹、姉という具合で、何ともアットホームな状況になります。加えて、そういうお店には常連さんがいて、それがまた大抵の場合、同行者の友人だったりします。私にしてみればお姉さん、お母さんにお世話してもらいながおんつぁまたちの同級会の席で一緒にお酒を飲んでいるような感覚でした。若者ならば若い女性がいるようなお店を好むのでは、と思われるかもしれませんが、案外そうでもなく、地元の〝おばちゃま方″がもてなしてくれる気仙沼のスナックは、若者にとっても一つのオアシスと言えます。たぶん、漁師まち、港まちの伝統がそういった雰囲気を守ってきたのだろうと思います。故郷を遠く離れて漁をする若者達にとって、寄港先の気仙沼というまちは、ずっと前から温かいところだったのだと思います。
気仙沼に住んで10年も経過し、年齢も35歳前後(約15年ほど前の話)になると、地域住民との交友関係もだいぶ広がりました。20代のころは親に近い世代の方とスナック巡りをしたりすることが多かったのですが、だんだんに近い世代の人たちと過ごす時間が増えていきました。5~10歳ほど年長の方が中心です。そういう世代の人たちとは、主にまちづくり活動などで親しくなっていきました。

美術館学芸員として、私は美術館運営に精を出していましたが、館業務とは別のアウトリーチ活動(個人的活動?)もたくさん行ってきました。地域住民との関係はそういった活動の中で深められていきました。私に興味を示す〝アニキ、アネキ″たちはなかなか個性的で、趣味や副業的な形で文化活動に関わっていたりします。そういう活動に〝誘い出された″私は、美術家としての能力を発揮してイラストを描いたり、それが縁でまちの観光解説看板をデザインしたり、地元劇団やアートグループの活動をお手伝いしたりと、いろいろなことをしてきました。

▲「恋人スクエア」解説版のイラスト

中でも地域住民との関係性を大きく広げた活動の一つがスローフード運動でした。

▲「気仙沼スローフードフェスティバル2010秋」の様子。

気仙沼で行われているスローフード運動は、単に一部住民の個人的な趣味によるものではなく、官民が一体となって進められてきたまちづくり活動です。〝食のまち″である気仙沼が、より高みを目指していくための思想的、文化的軸としてスローフード運動は推進されてきました。この活動を支えてきた若き地元企業家の皆さんは、気仙沼を愛し、気仙沼のためなら私財を投じることもいとわないという粋な人たちで、私は初期からこの活動に参加し、いろいろとお手伝いをしてきました。そういう人たちがいたからこそ、私は気仙沼をより大切に思うようになりました。地元を愛する人々の心意気こそが、地元を輝かせる最大の原動力です。そういう力を持っている気仙沼はやっぱり素敵です。

(つづく…)
この記事は全4回に分けてお送りします。
「気仙沼のいいところ(在住27年、ベテラン移住者から)」
第1回「気仙沼との出会い」
第3回「気仙沼の宝、ユニークな人々」
第4回「おわりに~あれから10年、愛しき気仙沼へ」

気仙沼の市民の方に先生としてご登場していただく
「教えて〇〇先生!」シリーズはこちらからご覧いただけます。

https://kesennuma-kanko.jp/category/marumarusensei/

気仙沼のいいところ(在住27年、ベテラン移住者から)第1回

このコーナーでは、気仙沼の市民の方に先生としてご登場いただきます。今回の先生は「リアス・アーク美術館」の館長、山内宏泰さんです。
それでは山内先生、よろしくお願いいたします!

今回のテーマは…

教えて○○先生ということで、気仙沼について何を語ろうかと思いましたが、今回は気仙沼のいいところを在住27年の〝ベテラン移住者″の立場からお伝えしようかと思います。
私が移住してきた27年前の気仙沼は現在とは全く別世界でしたので、まずはそこら辺の背景から、東日本大震災発生前の気仙沼、それから現在の気仙沼についていろいろ語っていきます。震災によって気仙沼は激変しました。それでも変わらない〝気仙沼のいいところ″と言えば…ここから先は本編で。

気仙沼との出会い

現在、リアス・アーク美術館で館長を務める私は、〝地元気仙沼の歴史や文化をよく知っている人″と認識されていますが、実際は移住者であり、いわゆる〝よそ者″です。もともと気仙沼には親戚縁者もおらず、文字通り〝縁もゆかりもない土地″にポッコリやってきた一人の若者でした。当時、若干23歳だったよそ者の私は、加えて〝学芸員″というあまり一般には知られていない専門職についていたため、好奇心旺盛な地元の〝おんつぁま方″からはずいぶん珍しがられ、可愛がっていただきました。

▲リアス・アーク美術館

私が気仙沼にたどり着くまでの経緯ですが、ざっくり言ってしまうと、石巻市で生まれ育ち、仙台市で学生時代を過ごした後、というか宮城教育大学の大学院在学中、気仙沼市に新設される〝リアス・アーク美術館″なる謎の美術館に勤めることになり、大学院を中退して気仙沼に移住してきました。

1994年当時の気仙沼と言えば、宮城県内でもものすごい僻地といったイメージで、教育大の学生の間では〝新採教員が送り込まれる試練の地″として恐れられた〝宮城の果ての港まち″でした。仙台からだと何をやっても片道3時間前後を要する遠隔地で、とにかく気仙沼は〝とても遠いまち″だったのです。
私自身は本当に縁のない土地でしたが、母方の叔母に教員だった人がいて、実はその叔母の初任地が気仙沼大島だったそうです。それこそ無縁だった大島で一人、叔母は下宿暮らしをしたそうですが、その環境に耐えきれずに数年で教員を辞めてしまった、という恐ろしい伝説が我が家に残されています。

▲昔の気仙沼魚市場

私が知る気仙沼とはそういうところでしたが、同じ宮城県内の石巻市という海辺のまちで生まれ育った身としては、当初から気仙沼の地域性にそれほどの違和感はなく、個人的には嫌な土地と感じることもありませんでした。しかし正直なところ、仕事をするにはちょっとハードルの高い地域でした。気仙沼と言えば、何と言っても漁業、水産業のまちです。そんなまちになぜか美術館建設構想が立ち上がり、巨大で極端に個性的なリアス・アーク美術館が建設されることになりました。

ところが施設の建設整備中にバブルが崩壊、美術館構想は一気に窮地に追い込まれました。地域住民にしてみれば、地域経済が坂を転げ落ちるように低迷していく中、美術館などという〝贅沢品″にお金をかけている場合ではない、芸術など腹の足しにはならない、それどころではないと考えるのは当然のこと、それが当時の気仙沼では常識でした。

オープン当初から、リアス・アーク美術館は「税金の無駄遣い、福祉施設に改造してしまえ!」などの批判的な声に晒され続け、将来性には大きな不安を抱えていました。大学院まで中退して、人生をかけて移住してきてしまった若者にとって、それは厳しい現実でした。しかしそのような現状を、私は次のようにちょっと変わった受け止め方をしました。

「芸術など不要だという地域住民に、その重要さを伝えることが自分の使命だ! 不要だというならば、必要だと言われるように、このまちを変えてみせる!」、なーんて、ちょっとおかしなことを考えてしまったのです。

▲震災前の安波山からの眺め

分別はあったと思いますが、今から振り返ってみれば、ずいぶん勇んだものの考え方をしたものだと思います。しかし、決して間違った考え方ではありませんし、教育施設である美術館(博物館)の教育職である学芸員の考えとして、その発想はバカが付くほど真っ当です。そう信じて生きていくしかなかったのです。そして、そんな風に考える私を評価、応援してくれるユニークな〝おんつぁま、おばちゃま方″が気仙沼に少しだけいました。
何だか一風変わったことをしている世話好きで個性的な〝おんつぁま、おばちゃま″たちは、気仙沼のことを何も知らなかった私をディープな底なし沼へといざなってくれました。私と気仙沼の関係はそこから少しずつ深まり、やがて離れられない関係へと発展していくことになります。

(つづく……)
この記事は全4回に分けてお送りします。
「気仙沼のいいところ(在住27年、ベテラン移住者から)」
第2回「ディープな気仙沼への入口」
第3回「気仙沼の宝、ユニークな人々」
第4回「おわりに~あれから10年、愛しき気仙沼へ」

気仙沼の市民の方に先生としてご登場していただく
「教えて〇〇先生!」シリーズはこちらからご覧いただけます。

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