風待ち ~港町の歴史的建造物~

港町・気仙沼は「風待ち」の港でもありました。

船の動力が風であった帆船時代、船が船出の風を待つ港であったためにそう呼ばれています。その風待ちの街には、大正や昭和初期に建てられた個性的な建物が多く並んでいましたが、東日本大震災でその多くが被災し解体されています。
現在、それら街の宝でもある歴史的な建物を修復・再建する取組みが行われており、三事堂ささき店舗、小野健商店土蔵、角星店舗、武山米店店舗が修復・再建され使用・公開されているほか、男山本店、千田家住宅などが再建に向けて準備が進められています。

世界三大漁場の三陸沖に面した港町・気仙沼の歴史は意外に浅く、遡ると江戸時代初頭に行きつきます。現在の気仙沼駅近辺を古町と呼びますが、気仙沼の街はこの古町から始まりました。当時気仙沼湾はもっと奥深く、現在の化粧坂の下あたりが港であったと言われています。気仙沼のこの風待ちの港は「細浦」と呼ばれるこの奥深い湾を埋め立ててできた人工の港なのです。

気仙沼では北西の風をナライと呼びます。ナライとはもともと山に沿って吹く風のことを言いますが、気仙沼ではナライとは船を港から出す風のことを言いました。現在の気仙沼の街はこのナライの風を港に集めるように設計され、埋め立てられたものなのです。岩手の室根山から吹く「室根おろし」などのナライの風が山と山に挟まれた現在の市街地である古町、新町、三日町、八日町を通り、港である魚町南町に集まります。現在の内湾はわざと埋め立てずに北西の風が集まるように設計されたもので、港町の産業遺産であると言えます。

船出の風の通り道として設計された気仙沼の市街地は、その宿命から何度も大火災に見舞われてきました。なかでも大正4(1915)年と昭和4(1929)年に起きた大火災はそれぞれ「大正の大火」「昭和の大火」といわれ、気仙沼の市街地のほとんどを焼き尽くしてしまいます。
しかしこの二度の大火に見舞われた街は、漁業や水産加工業の発展により大きな経済力をつけていたため、当時の最先端の文明を全面的に取り入れた形で復興を成し遂げます。

詩人の高村光太郎は昭和の大火の2年後、昭和6(1931)年にこの街を訪れていますが、その第一印象を「船から見た気仙沼町の花やかな燈火に驚き、上陸して更にその遺憾なく近代的なお為着せを着ている街の東京ぶりに驚く」と書いています(高村光太郎『紀行文「三陸廻り」』)。その東京から直輸入した最先端の文化と豊かな経済力を背景に建てられた建築物は伝統的な土蔵造から、流行の建築様式まで多種多様で雑多で自由であり、大変個性豊かな街並みが形成されます。

その後、この市街地は戦火による大きな被害を免れ、昭和初期の街並みが大きく変わることなく残ったため、この港町気仙沼の独特の風情が醸しだされていきます。

平成に入りこの街並みに着目し保存活用に取り組んだのが、地元の建築士さんが中心となり活動する「風待ち研究会」であり、気仙沼の旧市街地を「風待ち地区」と名付け、調査研究と活用を始めました。当時文化財登録制度が制度化されたこともあり、こういった市内の貴重な建物を調査し文化財として登録していきます。

そんな矢先にあの東日本大震災が襲います。

多彩な歴史的建造物は、ほとんどが被災し大きな被害を受けました。それでも震災後の2011年8月に行われた調査では内湾地区だけでも約350棟近い歴史的建造物が残されていましたが、その多くは残念ながら取り壊されました。
現在は、震災当時登録有形文化財であった5棟とその取組みに共感した1棟が修復・再建に取り組み、国内はもちろん、海外からも大きな支援を受けて修復・再建が行われています。

風待ち地区の街並みは変わりつつありますが、二度の大火とこの大きな震災を乗り越えた新たな街並みがこれから形成されていきます。

気仙沼風待ち復興検討会
http://kazamachi.jp/

三事堂ささき店舗
小野健商店土蔵
角星店舗
武山米店店舗・炊飯博物館

お問い合わせ先
気仙沼市教育委員会生涯学習課 0226-22-6600